平成25年8月15日

すぐばれるような嘘をついてはいけません。水間氏は「国民が真実を知らない」などと書いてますが、あなたの書いていることが嘘であるとすぐばれるのに、よく真実について何事かが言及できるものです。

●《平成25年8月15日》
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-1418.html
靖国神社は、酷暑の中、蝉しぐれが響き渡る朝から騒然となっていました。

韓国の国会議員が「謝罪パフォーマンス」の横断幕をもって靖国神社境内に突入しようとして、警察官に阻止されギャーギャー暴れていました。政治活動をした韓国の国会議員には、今後、入国ビザを発給しない措置を講じることが大事です。また、竹島に上陸した韓国の議員にも、入国ビザを発給しない措置も必要です。

昨夜、NHKは「従軍作家たちの戦争」特集を放送していたが、火野葦平は、戦後、従軍日記に記述してあった文書を加筆して、戦前のベストセラー『麦と兵隊』と『土と兵隊』の完成版としたことが、重大な言論検閲があった証拠だと大々的に放送していました。

その加筆した部分は「負傷していた中国兵が苦しんで、胸を撃ってくれと懇願され撃った」ことだったのだが、火野葦平は小説家であり、また当時は兵士でもあったのであり、従軍日記を加筆したくなったとしても不思議なことでも無いでしょう。

このことを過大に取り上げ、戦時中の言論検閲は酷い酷いと連呼していました。戦時中は米国も英国も言論検閲をしていたのであり、戦前、米国外交官ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸中国の真実』が、発禁処分にされていたり、現在でもCIA元職員スノーデン氏の告発で、米国民衆や諸外国の政府機関に言論検閲している実態が明らかになっています。

NHKが同番組で一番主張したかったことは、戦前発禁処分になった石川達三の『生きている兵隊』に記述されていた内容で「南京大虐殺」があったと特定したかったようだ。わざわざ中国で出版されていた『生きている兵隊』を中国人に語らせて問題視させる姑息さでした。


石川達三の『生きている兵隊』は、南京攻略戦を戦った第16師団の兵士の聞き書きであり、実際に取材したものではなく、戦意高揚の要素が入っていることを否定できないのです。

それを石川達三は、生前、阿羅健一氏の取材に手紙に回答していたのです。その内容は「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」(『「南京事件」日本人48人の証言』)と、証言しています。


この証言の凄いことは、南京陥落2週間後に入城して見て、虐殺の痕跡を一片も見ていないと断言していることです。中国は南京陥落後6週間に渡って殺戮をしたと言い募っているのであり、NHK石川達三の小説『生きている兵隊』を悪用して、「南京大虐殺」を固定化しようと四苦八苦していました。


NHKやTBSなどが、こそこそ捏造放送できるのは、国民がまだまだ真実を知らないとナメているからです。


それには、核心的一次資料情報を国民に浸透させることが必要です。



東京裁判の実態】を知るためのテキストは『パール判事の日本無罪論』(田中正明著、小学館文庫)http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d.html/ref=redir_mdp_mobile/378-8844224-9212722?uid=NULLGWDOCOMO&a=4094025065


★【韓国】を封じ込める『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4569810373/ref=mp_s_a_1/376-5953080-3589208?qid=1358496003&sr=1-8&uid=NULLGWDOCOMO&pi=AA75


★【中国】を封じ込める『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4569812651/ref=mp_s_a_1/377-0242082-4819874?qid=1366426090&sr=1-1&uid=NULLGWDOCOMO&pi=AA75



★【米国】を沈黙させる『ひと目でわかる「アジア解放」時代の日本精神』http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4569813895/ref=redir_mdp_mobile/377-4424351-5981427?ie=UTF8&keywords=%E6%B0%B4%E9%96%93%E6%94%BF%E6%86%B2&qid=1375264760&ref_=sr_1_4&sr=8-4


※ジャーナリスト水間政憲;インターネットだけ転載フリー〈条件・全文掲載〉http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/


たまたまですが、私もNHKの「従軍作家たちの戦争」を見ていました。

>昨夜、NHKは「従軍作家たちの戦争」特集を放送していたが、火野葦平は、戦後、従軍日記に記述してあった文書を加筆して、戦前のベストセラー『麦と兵隊』と『土と兵隊』の完成版としたことが、重大な言論検閲があった証拠だと大々的に放送していました。


旧日本軍が情報統制、検閲をしていたことは常識でしょう。実際にこの特集の中でも雑誌が発行直前に当局から発禁になったこともちゃんと描写してますし。
この水間氏の書き方は、さながら『言論検閲など無かった』と言いたげですね。

…と思ったら…

>このことを過大に取り上げ、戦時中の言論検閲は酷い酷いと連呼していました。戦時中は米国も英国も言論検閲をしていたのであり、戦前、米国外交官ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸中国の真実』が、発禁処分にされていたり、現在でもCIA元職員スノーデン氏の告発で、米国民衆や諸外国の政府機関に言論検閲している実態が明らかになっています。


『ほかの国でもやってるんだ!日本は悪くないんだ』と言いたげです。何を言ってるんですかねこの人は。例えばどこの国で行われようが殺人は殺人で、アメリカ人が殺人したから、日本人の殺人が免罪されるわけではありません。

この方は、「言論統制が無かった」と言いたいのか「日本の言論統制は悪くない」と言いたいのかよく分かりません。まあ、そんな矛盾がわかるようなら歴史歪曲主義者なんてやってられないでしょう。

>それを石川達三は、生前、阿羅健一氏の取材に手紙に回答していたのです。その内容は「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」(『「南京事件」日本人48人の証言』)と、証言しています。
>この証言の凄いことは、南京陥落2週間後に入城して見て、虐殺の痕跡を一片も見ていないと断言していることです。中国は南京陥落後6週間に渡って殺戮をしたと言い募っているのであり、NHK石川達三の小説『生きている兵隊』を悪用して、「南京大虐殺」を固定化しようと四苦八苦していました。


さて、今日の嘘はここです。まるで石川達三氏が南京事件を否定しているかのように書いていますが、実際はどうでしょうか?
南京事件に詳しいゆうさんのサイトから引用します。
一部だけですので、是非元のサイトをご確認ください。

文化人と「南京事件
http://www.geocities.jp/yu77799/bunkajin.html

石川達三

 石川達三氏は、南京占領後の1937年12月下旬、中央公論会の特派員として、上海、蘇州、南京をめぐりました。南京入りは1月5日のことです。

 氏は1月帰国後、兵隊たちから聴取した体験談をもとに、小説「生きている兵隊」を著しました。 この小説は「中央公論」三月号に掲載されましたが、「反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品」として発売禁止処分を受け、その後「新聞紙法」違反で起訴、禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けました。

 氏は、兵隊たちへの取材を通して、南京戦前後の日本軍の行動について十分な認識を持っていたようです。以下、戦後「読売新聞」に掲載された、石川氏へのインタビュー記事を紹介します。


「読売新聞」昭和21年5月9日

(見出し) 裁かれる残虐『南京事件

(リード) 東京裁判の起訴状二項「殺人の罪」において国際検事団は南京事件をとりあげ日本軍の残虐行為を突いてゐる、 掠奪、暴行、■殺、■殺―昭和十二年十二月十七日、松井石根司令官が入城したとき、なんとこの首都の血なまぐさかつたことよ、 このころ南京攻略戦に従軍した作家石川達三氏はこのむごたらしい有様を見て”日本人はもつと反省しなければならぬ”ことを痛感しそのありのままを筆にした、昭和十三年三月号の中央公論に掲載された小説『生きている兵隊』だ

 しかしこのため中央公論は発禁となり石川氏は安寧秩序紊乱で禁錮四ケ月執行猶予三年の刑をうけた  いま国際裁判公判をまへに”南京事件”の持つ意味は大きく軍国主義教育にぬりかためられてゐた日本人への大きな反省がもとめられねばならぬ、石川氏に当時の思ひ出を語つてもらふ



(中見出し)河中へ死の行進 首を切つては突落とす

(本文)

 兵は彼女の下着をも引き裂いた すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた。みごとに肉づいた、胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた …彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―

 "生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた

 また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した

 戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか

 ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた

 何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ

(「読売新聞」昭和21年5月9日付 2面中上 リード4段、見出し3段)

*■部分は、2か所とも「殴殺」に見えるのですが、字が潰れていて自信が持てないため、とりあえず■で表示しました。


石川氏は、『サンデー毎日』 1970年8月16日特別増大号 「秘録 "あの大東亜戦争"」でも、インタビューの中で、「南京大虐殺」に言及しています。

『いままた戦争の足音が聞こえてくる? かつての従軍記者 石川達三氏は憂える』より


 石川特派員は、この南京で、異様な光景を目撃した。南京の街のまわりには、高い城壁がめぐらされていた。揚子江沿いに、ゆう江門という門があった。その門に近い城壁に、兵隊のゲートルを二、三本つないだものが、幾条もたれ下がっていたのである。

 いったい何のためだろう? 石川特派員は不審に思った。わけを聞き、始めて合点がいったが、同時に戦争というものにひそむ偶発性に、いもしれぬ恐怖を覚えた。その幾条ものゲートルは、南京城内に閉じ込められた中国兵が、城外へ逃げるために伝って降りた命綱だったのである。

 そのゲートルについて、石川特派員の取材した話というのは、こうだ。

 日本軍が南京へ迫ったとき、中国軍のなかに、城外へ逃亡を企てる部隊が続出した。そこで中国軍は、一番逃げやすい揚子江沿いのゆう江門を、がっちり押えて締めきった。ゲートルの命綱で逃げた兵隊もいたが、ほとんどの将兵は城内に閉じ込められた。日本軍が入城したのは、そんななかへだった。城内には、中国の敗残兵と非戦闘員が満ちあふれていた。(P26-P27)

「これも、日本軍としては、予想もしなかったことのようでした。中国軍の司令官は、いち早く姿をくらませている。軍の施設は徹底的に破壊され尽くしている。 むろん食糧も全くない。城内の何万人という中国人を、いったいどう扱えばいいのか。日本軍はホトホト困り果てた。 こういう予想もしなかった事態が、あの大虐殺という残忍な行為と、結びついていったのです。

アメリカが落とした原爆だって、向こうは開戦時から使うつもりではなかったろうし、いざ使う段になってからでも、広島にするか長崎にするか、あるいはもっと他の都市にするか、結局、最後はその朝の日本の天候などで、落としやすい所へ落としている。戦争というものは、そういう偶発事故の連続なのです。どこへころがっていくかわからない。これは恐ろしいことじゃありませんか」

(『サンデー毎日』 1970年8月16日特別増大号)



 ここでは、「大虐殺という残忍な行為」の存在が、話の当然の前提として語られています。石川氏が「大虐殺」の存在を疑問のない事実として受け入れていたことは、明らかでしょう。この発言の前後を含むより長い引用は、こちらに掲載しました。



 なお、この読売新聞記事に対比する形でよく持ち出される、阿羅健一氏の石川氏に対するインタビューも紹介します。

「「南京事件」日本人48人の証言」より

 昭和五十九年十月、インタビューを申込んだが、会うことはできなかった。理由は後でわかったが、それから三ヵ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のため亡くなった。インタビューを申込んだ時は胃潰瘍が良くなりつつあったが、会えるような状況ではなかったのである。しかし、そのおり、次のような返事をいただいた。

「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。

 何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」

(P312)


上の記述ではなぜか阿羅氏の「質問」が省略されていますが、「じゅん刊 世界と日本」の記事で、その応答を確認することができます。

聞き書き 唱和十二年十二月南京 「南京大虐殺」説の周辺」より

  お会いしたいと思って連絡をとったが、会えることは出来なかった。代わりに次のような返事をいただいた。簡単だが質問と返答の形で記す。

−いつ南京にいらっしゃったのですか?

「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です」

−その時、どのような虐殺を御覧になりました?

「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません」

−いわゆる南京大虐殺をどう思いますか?

「何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」

(「じゅん刊 世界と日本」No444 P14)


 石川氏はなぜか、「読売新聞」記事に見られるような「兵隊」の「無軌道の行動」について一切語っていません。上に見るような石川氏の発言の推移を見ると、これはいかにも不自然です。

 どのような状況で「質問と返答」が行われたかは不明ですが、「否定」の側面を強調させようとする「誘導」が働いた可能性は否定できません。 また「会えるような状況ではなかった」ほど健康を害した状態でのやりとりであり、石川氏がどこまで十分な認識の下に語ったのか、疑問が残ります。

 いずれにしても、「生きてゐる兵隊」、読売新聞記事、その他関連発言を見ると、石川氏が、「二十万」なり「三十万」なりの規模はともかく、上海戦−南京戦において 「いくら何でも無茶」な規模の「兵隊」の「無軌道の行動」を認識していたことは、間違いのないところでしょう。

石川氏の書いた物は多数ありますので、リンク先を確認していただきたいのですが、一貫して、大量殺害、虐殺に言及したもので、この阿羅健一氏に対しての回答だけ、否定しているように取られることが書いてあります。

不思議ですよね。ゆうさんも書いている通りですが、「会えるような状況ではなかった」ほど健康を害した状態でのやりとりにもかかわらず、一問一答しているというのは。少なくとも水間氏の書いているような「手紙」ではなさそうです。
じゃあ、電話でしょうかね?まあ、阿羅健一氏のことですから、証言を捻じ曲げるくらいのことは平気でやるでしょうね。

http://blogs.yahoo.co.jp/satoatusi2006/36472759.html


>この証言の凄いことは、南京陥落2週間後に入城して見て、虐殺の痕跡を一片も見ていないと断言していることです。中国は南京陥落後6週間に渡って殺戮をしたと言い募っているのであり、NHK石川達三の小説『生きている兵隊』を悪用して、「南京大虐殺」を固定化しようと四苦八苦していました。


石川氏は「生きている兵隊だけ」で南京事件を語っているわけではありません。今までの石川氏の書いていることを否定して、この証言「だけ」で覆そうとしているのですから、歴史歪曲主義者の根拠の薄弱さが知れるというものです。
だいたい本当に阿羅健一氏は石川氏にそういうことを聞いたんでしょうか?証拠も何もないですわな。歴史歪曲主義者の作法によれば、「ちゃんとした証拠がないからこの証言は無効」ではないのでしょうか?